人生は観自在
天声開説 般若天行

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 T

(観自在、般若波羅蜜多の行をおこなったとき、すべてが空であると照見し、一切の苦厄を超越する)

 この25文字のなかに、「般若天行」のすべてが入っているといっても過言ではありません。これがすべてともいうべきものです。これにつづく部分は、この25文字の補足、あるいは解説といったぐらいの意味しか持ちません。
 なかでも、最も重要なところが「観自在」という言葉です。これは、先に触れましたが、もう少し補足をしておきます。
もういうまでもありませんが、「首から上」でおもうのが「思う」であり、「首から下」の部分でおもうのが「観(おも)う」です。
 たとえば、「他人には感謝しなければいけない」とよくいわれますが、そのことを教え聞いても、とうてい感謝できる自分にはなれません。
 感謝しようと「思っ」て自分にいいきかせても、相手の顔を見たとたんに、なぜか憎しみがグワーッと源(わ)いてくることがあります。この憎しみは、「観」です。つまり、「観(おも)い」なのです。
 天声もこう伝えています。
 『頭でどうしようもない自分が本来の自分、自分の本体である』
 人生では、知っていてもどうにもならないことがあります。「感謝しなければ」と知っていても、自由自在にならないのが人生というものです。ところが、この「観(おも)い」というのは自由自在に源いてきます。
 喜びが源(わ)いてくる。憎しみが源(わ)いてくる。イライラが源(わ)いてくる。「源(わ)いてくるな」といっても源(わ)いてくる。自由自在に源(わ)いてくる。
 アタマではどうしようもなく源(わ)いてくるものが、「観(おも)い」なのです。「プラスの観(おも)い」も、「マイナスの観(おも)い」も、どうしようもなく源(わ)いてくるのです。
込みあげてくるもの、それが「観い」です。道徳や倫理や常識といったものでは制御できないもの。それが「観(おも)い」なのです。
 そして、大切なことは、この「観(おも)い」がそのまま人生をつくるということなのです。
 人生とは、運命でも運勢でもない。手相でも人相でもない。印相で決まるものでもなければ、墓相で決まるものでもない。
霊もないし、因縁もない。ましてや、理屈とか理論でもない。
 なにがあるのか。あるのはただ一つ、「観(おも)い」がなんと出るかなのです。
 また、この25文字のなかに、「人生とは苦である」と断言されています。その「苦」を「苦」と思わない自分に成るために、人生というものがあります。
これは大変なことのように見えますが、じつは源(わ)いてくれば簡単なことなのです。
(わ)いてくることによって、「苦」を「苦」と感じない自分になる、成ろうとするのではなく、いつの間にか「成る」自分になれるのです。
 観自在というのは、とにかく「観(おも)う」まま、「観ずる」ままの自由自在ということです。
 そして、源(わ)いている人は真に「悟れる人」です。
 仮に一般的な常識でいうならば不幸とされる状態であっても、幸福な状態と同じように「最高の喜び」が込みあげてくる、そうした絶対の「喜び」を実証した状態が「観自在」なのです。
 「観自在」とは、欲が消滅した状態ではありません。
 いわば、欲からさえも「自然の法則」に沿える自分に転化することです。
 そうした状態に成れたとき、欲は人を生かし、喜ばそうというエネルギーとなり、その人は太陽のような光を発する人となれます。それは、一切のこだわりがなく、自然のままに、すべてを「喜び」に転じ、自然のままに流れていく「人間完成」の姿です。
 自分の欲するところがすべて天地の法に沿い、行うことすべてが、自分だけでなく相手にも「喜び」をもたらす。そのさまは、泳いでいこうとするところ、つねに潮に後押しされるようなものです。「観い(おも)」が先にあって、あとに現象がつづく。現象が先にあって「だから最高」、というのは嘘であり、アタマでつくった最高です。無条件の「最高の観(おも)い」だけが「最高」なのです。

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